私が期せずしてメディアの世界に足を踏み入れるきっかけとなったのは1975年の2月のことでした。東京西郊の国立市にある大学の大学院生用掲示板に「共同通信社補充記者募集」の貼紙を見つけたのです。小雪の舞い散る寒々とした日でした。修士課程の論文審査と博士課程の試験が無事終わった直後に、慕い、尊敬していた所属ゼミの教授はガンを患い、長期療養に入ってしまいました。掲示板の紙を目にしたのは奥様から「医者から今度の手術が上手くいっても、よくもって数年と言われています。若干の研究は続けられても、もう教壇には立つのは無理だし、ゼミも主宰できないと言われました。本当にごめんなさい」と告げられた数日後でした。
いわゆるジャーナリズムにまったく無関心だったわけではありません。しかし、特定の月刊誌は別として、新聞、週刊誌の類の熱心な読者では決してありませんでした。若気の至りというか、メディアの世界が深く事象の本質を探求するとはとても思えず、特に事件、事故など社会面記事は唯一身内が死亡した1970年ごろ韓国・ソウルで発生したホテル火災事件を除き、夢中になって読んだ記憶がありません。
ジャーナリストという言葉に憧れたこともなかった私が1975年4月以来、もう32年も記者を続けているのですから皮肉なものです。どんなニュース活動をしているかほとんど知らなかった社団法人・共同通信社は当時おおらかな組織でした。採用年齢制限を1歳越え、しかも面接試験では十分な予備知識を持って臨むこともしなかったため、「君は通信社のことを少しは勉強してきたのか」と当時の編集局長に厳しく質され、「これから勉強します」と答えてしまいました。それでも採用してくれたのだから、「おおらかだった」としか言いようがありません。
第1次石油ショック後の不況で1974年度の記者募集を中止したものの、若手記者の人事異動に支障が出るため急きょ若干名を募集することにしたそうです。それで真冬の2月に慌てて記者採用試験を実施したわけです。同期には売れっ子・ノンフィクションライターとして活躍している魚住昭がいます。共同通信社の第一次面接の帰途、電車で偶然に同じ車両に乗り込み、顔を合わせたのを覚えています。私は同じ大学の大学院に在籍、彼は学部生だったからです。かなりはすに構えた、反骨精神に溢れた青年というのが、当時の印象でした。
今は亡き教授は「われわれの仕事の目的は歴史や社会事象のRETTUNG(ドイツ語で、一般には救助、救出と訳されますが、『埋もれてしまったものを救い出す』というニュアンスがあります)にある」とわれわれゼミテンを諭していました。私が記者試験を受けてみようと思い立ったのはこのレットゥング(RETTUNG)こそジャーナリストの仕事だと思い込んでしまったからです。
どんな形であれ、権力を持つ者は、必ず力を維持、拡大して行こうとしますから、腐敗、不正は不可避です。メディアはいわゆる三権によるチェック・アンド・バランスでは不十分な面を補完する機能を果たさねばなりません。権力執行の真相の大半は日々闇の中に葬られてしまって行ってます。それを掘り出し、明るみに出すこと、つまりレットゥングはジャーナリズムの本来の責務である「権力の監視」と密接不可分な関係にあると考えたのです。
しかし、記者になり10年も経つと、大手メディアが誇らしく掲げる「権力の監視こそジャーナリズム」との看板に偽りがあることを痛感するようになりました。この美辞麗句が実に建前に過ぎないことにはっきりと気づきました。実態は歯止めもなく、権力執行者、あるいはその諸機関などとの癒着に埋没してしまっています。一部の者は、全国紙Y紙のW会長に象徴されるように、完全にインサイダーとなり、政局の仲裁者、巨大企業と官界・政界の仲介人、あるいはフィクサーとなる者も少なくありません。「社会の木鐸」たるべき人々がミニW氏に化したり、たかり屋、ゆすり屋と呼ばれても仕方のないヤクザに近い類に転落した姿も見せつけられました。
もちろん例外は多々あります。尊敬すべき先輩もいました。しかし、大手メディア企業所属のいわゆる会社記者は、排他的な談合組織であり、権力との癒着の媒体である記者クラブ制度という温室に安住し「暖衣飽食する社畜である」との結論にたどり着きました。この結論へと最終的に導いたのは1989年1月7日に起きた“宮中某重大事件”でした。まさに私にとってこの日は悪夢が現実となり、戦後ジャーナリズムが「自ら命を絶った日」となりました。
当時、私に共感してくれた記者仲間の何人かと帰国後会いました。今は企業組織の“エグゼクティブ“になった者もおり、かつて憤怒の余り涙したことを忘却したかのように、組織防衛と自己保身に汲々とする姿をみせつけられました。中には、「そんなこともあったな」と苦笑いする者もいました。その度に、我々が信じ、さらに強固なものにしようと努めたはずの「戦後民主主義の旗手としてのジャーナリズム」と言うスローガンの虚構性をあらためて見せつけられました。しかし、絶望はしていません。強固な意志と「連帯を求め孤立を恐れず」との精神であらゆる困難に立ち向かってまいります。
現在、いわゆる情報革命、マルチメディア化でジャーナリズムも大きく変容しています。否、変容というより、ますます権力監視機能を脆弱化させ、権力機構にやすやすと操作されるたんなる情報媒体としての性格を強めています。こんな中、フリーランス記者として生きていくことは、分かり切ったことですが、実に多難です。取材費以前の生活費を賄う仕事に追われ、フリーランスになってからの13年間、成し遂げたことは実に少ないと言わざるを得ません。
今、遅ればせながら自分自身のサイトを持ち、志ある人々と連帯し、真の自立した記者への道を切り拓くことと考えるに至りました。体の動く限り、「生涯一記者」を貫く決意です。私の一部媒体への寄稿にはインディペンデント・ジャーナリストと記すようになったのはこのためです。
レットゥングの名に値するかどうかは分かりませんが、2007年7月に帰国して以降、日本の
国際ネットメディアと
大手出版社月刊誌に掲載された2つの記事を挨拶代わりに、サンプルとして読んでいただきたいと思います。